日本産業経済学会設立の趣意
現在、日本経済はかって経験したことのない変化に直面している。1985年のプラザ合意に端を発した急激な円高により、経済環境は一変して不況に陥った。こうした事態を打開すべく大企業のみならず多くの中小企業は海外に活路を見出して、東南アジア諸国や中国へと生産移転を促進している。この結果、産業の空洞化現象が起きているといわれている。
一方、80年代後半の円高不況対策としての金融緩和政策は金余り現象を惹起し、不動産や株式を中心にしたバブル経済を招来した。そして、90年初めから始まった株価や地価の大幅な下落によりバブル経済は崩壊し、多くの企業や個人投資家は損害を被り、その結果、金融機関は巨額の不良債権を抱えることになった。
92年5月以降、経済は不況局面に入った。この不況がどこまで続くのか予断を許さないが、長引けば日本の産業基盤を揺るがしかねない懸念が発生しよう。
こうした経済状況をいかに打開すべきか、また日本の産業構造は今後いかにあるべきかを調査研究し、客観的に論証し世に提言することが、産業・経済を研究対象にする本学会に求められている役割ではないだろうか。
さて本学会は、1973年に中部産業経済学会という名称の下、名古屋市で創設された。毎月1回の定例研究会を開催し、主として中部地方の産業や経済についての研究を行い、多くの成果を収めてきた。その一端は、会員10名の共著である「東海の中小小売業問題―近代化への胎動と課題」(昭森社、1985年5月)や8名の共著である「円高デフレ下の東海経済―その沿革と実態と課題―」(中部産業経済学会編、1987年9月)として結実している。
本年で中部産業経済学会創設から20年が経過して会員数も大幅に増加し、同時に会員の居住地も北海道から九州まで全国に広がり、また大学教員のみならず実務界で活躍中の会員も数多く在籍するようになった。創設当時とは学会の成り立ちが大きく変貌したのである。
こうした学会基盤の変化と先述の日本の産業経済構造の変貌に鑑みて、研究対象や領域を拡大し、日本全国を足場に活動を展開するために、ここに本学会の名称を「日本産業経済学会」と改名し、新たなる出発をすることを決意した。
なお、名称を変更しても、これまで本学会を支えてきた大本の活動方針は大きく変わらないであろう。すなわち、会員相互の切磋琢磨や徹底した議論により充実した中身の濃い研究活動を展開することや、世の移り変わりの速さに伍して機敏に研究成果を世に発信することなどは不変である。また、本学会の存在意義である、①研究報告の場を提供し後進を育てること、②質の高い優れた研究者を育むこと、は本学会の使命といえよう。
本学会は改名を機に、斯界の研究水準の向上に寄与するために、さらなる飛躍を図るべく最善を尽くすことをここに誓うものである。
多くの研究分野の方々のご賛同とご参加をお願いする次第である。
1993年4月吉日